神殺しの13人とは?
神殺しの13人(エインヘリャル)とは、
大人気バトル漫画『終末のワルキューレ』に登場する人間代表の英傑たちの事です。
メンバーは、
呂布奉先
アダム
佐々木小次郎
ジャック・ザ・リッパー
雷電為右エ門
始皇帝
レオニダス王
ニコラ・テスラ
沖田総司
グレゴリー・ラスプーチン
ミシェル・ノストラダムス
シモ・ヘイヘ
坂田金時
そして、
釈迦
を加えた14人の闘士です。
彼らは人間代表として神々と対決します。
この記事では、13巻発売時点で戦いを終えた六傑の内2人の英傑の史実や伝記から逸話を紹介します。
マンガの内容やネタバレは含まれていませんのでご安心ください。
なお、中には史実と演戯などの創作を混交した記述もあります。
エンタメと割り切ってお楽しみ頂ければ幸いです。

『終末のワルキューレ』のあらすじが気になる方はこちらの記事をご参照ください
2人のキャラクター
本記事では、釈迦 始皇帝 について紹介します。
彼らの生年没年や出身地、略歴、有名な逸話、マニアックな説などを順に紹介していきます。
釈迦
生年没年
本名をゴウダマ・シッダールタといいますが、本記事内では釈迦で統一します。
釈迦の生年没年に関する説はいくつかありますが、代表的なものを二つ記載します。
①紀元前463ー前383年説
②紀元前565ー前485年説
どちらも80歳で入滅したというところで共通しています。
出身地は古代北インドで、その地域を治めていたシャカ族の生まれで、王子です。
部族名が尊称である釈迦の由来になっています。
略歴
上記の通り釈迦族の王子として誕生した後、29歳で宗教生活(初期仏教)に入りました。
そして35歳で成道しました。成道‐じょうどう‐とは、悟りを開き仏教を完成させることです。
インド北部ガンジス川中流域のブッダガヤという場所で悟りを開き、インド北部のウッタル・プラデーシュ州サールナートで初転法輪(初説法)をしました。
それから布教活動に従事し、80歳の年の2月15日に入滅したと伝わっています。
釈迦は、酷熱のインド各地に成道以後の45年間も教えを説いて回ったと云われており、現代教徒人口4億人の世界宗教の礎を築きました。
今なお多くの信徒たちから尊敬されており、それは名前からも見て取れます。
釈迦という名前は尊称であり、それ以外にも仏陀(悟った者/目覚めた者の意)仏様、如来(心理の完成者)勝者-しょうじゃ-など様々な名号があります。
本名までわかっている上にこれだけ色々な呼び方があって、何故「釈迦」と呼ばれるのか気になった読者さんもいらっしゃると思うので、僭越ながら説明しましょう。
これは、釈迦ことシッダールタが「シャカ族の聖者」と呼ばれたことに起因します。
サンスクリット語でシャーカムニと尊称し、音写して釈迦牟尼と書きました。
それを略して「釈迦」と呼んでいるわけですね。
有名な逸話
「天上天下唯我独尊」
釈迦の逸話は数あれど、もっとも有名なものはこれだと思います。
釈迦は、ルンビニーという場所で生まれました。
その直後に立ち上がり、7歩歩き、右手を天に左手で大地を指差したまま 「天上天下唯我独尊」との言葉を発したと伝わっています。
つまり世界で一番尊い者は自分ですよ、とこう仰りたいわけですね。
確かに生まれた直後の乳飲み子がこのように難しい言葉を快活に発せられれば、周囲に尊いと思わせるに十分だと思います。
釈迦を神格化したこの伝説は、仏教徒ではない筆者でも知っているくらい有名です。
しかし、ここで衝撃の事実なのですが、この言葉は釈迦の発言ではないことが分っています。
毘婆戸仏‐びばしぶつ‐という釈迦が仏になる以前の仏陀(過去七仏)が誕生した時に発した言葉であるとされています。
釈迦の誕生の際に周囲の人々が毘婆戸仏の再来の様に喜んだという説が、そのまま釈迦の伝説に置き換わったようです。
因みに、この唯我独尊という言葉を「世界で一番尊い者は自分ですよ」とおごり高ぶるという意味で用いるのは誤りです。つまり上記の筆者の解釈は明確に間違っています。
本来の意味合いは、宗派や仏教観、釈迦に対する解釈によって時代によって変遷しますが、基本的には解脱(苦しみの輪廻から逃れること)に関係しています。
唯我独尊とは、人間には尊い目的があるという意味であり、解脱という仏教のゴールに向かう姿勢を言っているのです。
こちらの方の動画がとてもわかり易かったので、ご紹介しておきます。
マニアックな説
誕生の伝説的な逸話に比べて、入滅、つまり釈迦が亡くなる時のエピソードはあまり知られてはいません。
本記事では、そちらにも触れていきましょう。
まず、釈迦の足跡を辿ることで霊験あらたかな聖地を巡ることが出来ます。
有名な四大聖地です。
これは、釈迦の生誕地、成道地、初説法地、そして入滅した場所です。
最後の場所をクシナーガラと呼びます。
釈迦は80歳で入滅しましたが、高齢でもインドを巡って説法を続けていました。しかし死期を悟り、故郷に戻る道中でした。
そして道すがら、純陀‐じゅんだ‐という敬虔な仏教徒の家に招かれ食事を提供されます。
豪華な料理も多く出される中で、スーカラ・マッダヴァという質素な料理に箸を伸ばし、他の料理を弟子たちに振舞わせました。
不幸な事に、釈迦は食中毒にかかります。
それでも平静を装い旅を続けようとしますが、流石にバレていたようで、心配した純陀も同行しました。
しかし、流石に力尽きて倒れてしまいます。その場所こそがクシナーガラなのです。
釈迦は、従弟でもあり、25年間一緒に説法を続けた阿難という弟子に純陀について言い聞かせます。
曰、自分が死んだ後に純陀の責任を問うような人が現れるだろうがそれは間違いだ。彼の食事のお陰で自分は仏に成る。自分の人生を完成させたのは、他ならぬ純陀である。
かなり要約していますが、釈迦は、純陀が信徒たちから咎められない様に便宜を図り、もし叱責する者が現れたら諭すように阿難に命じました。
そして遺言として「諸行は滅び行くものである。怠ることなく精進せよ」という言葉を残しました。クシナガラ郊外の2本のサーラ樹(沙羅双樹‐さらそうじゅ‐)の下でのことです。
その後、釈迦は入滅します。
非常に穏やかな往生であり、釈迦は、宗教家の大半が受けてきたような迫害に晒されることなく、多くの人から愛され、尊敬されて生涯を閉じました。

始皇帝
生年没年
本名を趙政といいますが、この記事内では始皇帝で統一します。
始皇帝は、古代シナの春秋・戦国時代から秦王朝時代の人物で、
生年没年は、紀元前259年2月18日 – 紀元前210年9月10 と記録されています。
戦国七雄の一つ「秦」の31代君主であり、戦国を治めて歴史上最初の皇帝(在位:紀元前221年 – 紀元前210年)となりました。
略歴
始皇帝は非常に波乱万丈な人生を歩んでいます。
死と隣合わせの幼少期や生まれる以前の祖父王や父王、宰相のサクセスストーリー、複雑すぎるドロドロの家庭環境など上げればキリがありません。
全ては紹介できませんので、ここでは始皇帝が秦の君主に就き、戦国を統一までの略歴をご紹介します。
まず、予備知識として春秋・戦国時代についてざっくり触れておきます。

これは、周朝分裂から滅亡、そして、秦が統一王朝になるまでの動乱期のことです。
「秦」「趙」「韓」「魏」「楚」「燕」「斉」の有力な七つの国を始め、多くの諸侯が争っていました。
発端は前王朝・周朝の内部分裂で、東西に分けて争った火種が各地に広がり、諸侯たちが周王の名代の「覇者」という役職の座を争いました(紀元前771~紀元前450年頃)。この時点では大小200近い諸侯がいたそうです。
そして、晋という国が三つに分裂した当りから周王の名代とかがどうでもよくなり、戦国時代に突入します。前半を春秋時代、後半から秦が統一するまでを戦国時代と呼びます。
晋から分かれた三つの国というのが「趙」「韓」「魏」です。紀元前450~400年の頃です。
始皇帝が秦の王位に就いたのが紀元前247年のことで、そこから26年で六つの国を滅ぼし、中華統一を果たします。
具体的な戦争期間は、その嚆矢である紀元前236年の趙攻略戦から15年後の221年に斉を攻略するまで続きました。
これを「秦の統一戦争」と呼びます。
最初に「趙」を攻め、攻めあぐねる中でも「韓」を滅ぼし、そこからは破竹の勢いで「趙」「魏」「楚」「燕」など周辺国を滅ぼしていきました。そして最後に「斉」を滅ぼして中華統一です。
それまで諸侯が争っていた戦国時代は終わり、中央集権国家である秦王朝が誕生しました。
最後になりますが、諸侯とは、天子(天帝に代わって国を治める人)の許可を得て地域を管理する人のことです。基本的には世襲制でしたが、始皇帝はこれを改めました。郡県制と呼びます。
有名な逸話
始皇帝には有名な逸話が数多く残っています。箇条書きで紹介しましょう。
- 最初の皇帝
生年没年にも書きましたが歴史上最初に皇帝の名乗りました。それまで王は王朝のトップであり同時代に原則一人でしが、春秋戦国時代では多くの諸侯が王を名乗っていたので価値が下がっていました。ですので、始皇帝は新しい肩書として皇帝を使ったのです。語源は「三皇五帝」です。周朝より更に以前の夏朝、それよりもっと古い時代、いわば神代に存在した理想の君主だと云われています。 - 蚩尤‐しゆう‐討伐?
これは『終末のワルキューレ』にて始皇帝のエピソードとして紹介されましたが、これは正確ではありません。実際の「伝承」においては、蚩尤を討伐したのは上記の三皇五帝の一人である黄帝という人物でした。原作者の梅村真也先生は伝承を知ったる上で、神話の実証性の低さを利用したオリジナル設定として創作したのでしょう。始皇帝の偉大な功績の脚色として一応記載しておきます。 - 不老不死の妙薬を求めた
当時の流行として、権力者は永遠の命を希求しました。始皇帝も例外ではなく、東西南北に使者を送り、手を尽くして探し求めました。そのうちの一人に徐福という人物がいて、彼は日本に渡来したという伝説があります。実証性はありませんが三重県に神社が残っています。 - 果断な政治改革
これは逸話というか功績ですが、多くの記録が残っています。始皇帝がやったとされることとして、大規模な土木事業や万里の長城の改修、単位の統一、農民から武器を取り上げた、地方の有力者の一族を首都に住まわせた、郡県制の採用などがあります。これらは後の王朝にも引き継がれるものばかりです。しかしこれらの大規模な政治改革を短期間で進めたことで反感を買い、秦朝の滅亡を招いてしまいました。
マニアックな説
始皇帝は、紀元前247年(12~13歳)で秦の王に即位して秦王政と名乗りました。しかし、それから9年間は呂不韋という人物が実権を握っていました。
呂不韋は元々は商人でしたが、紀元前249年に周(東周)を滅ぼした人物で、非常に出来る男でした。
呂不韋は、彼だけで一つ記事が書けるくらい濃い生涯と影響力を持った人ですが、ここでは省きます。
重要なのは、この人物が始皇帝の実際の父親ではないか?という話が残っていることです。
始皇帝の母親は趙姫という女性なのですが、元は呂不韋の妾でした。呂不韋は出世の為に、始皇帝の父王に趙姫を差し出して結婚させます。そして、王と趙姫の間に生まれた子供が「趙政」つまり始皇帝だと伝わっています。
これに異を唱える説として、趙姫は婚前時点で既に始皇帝を身籠っていたのではないか?という疑義が提示されています。今なお議論が続いているそうです。
個人的な考えでは、始皇帝の権威を下げたい後の漢朝で広まったプロパガンダではないかと思います。
始皇帝は、残忍な暴君としても多くの話が残っている人物で、処刑や焚書坑儒と言った蛮行が語り継がれています。筆者は書を燃やす奴にロクな人はいないと思っていますが、上記の説は真実でしょうか?
これらが本当だとして、何故出生にまつわる伝承を始皇帝が残したのか疑問です。
シナの王朝では「天子が国を治める」という天命思想に基ずく、権力の正当性を表す考え方を重要視しています。始皇帝や夏殷周などの歴代王朝の君主等は、黄帝の子孫であると公言していました。
自分たちは正当な黄帝の後継者であり国を治める資格がある、としたかったわけです。
もし、始皇帝が呂不韋という出生不明な人物の子という話が周囲に広がれば、沽券に関わるどころの話ではありません。四方八方からクーデターが降り注ぐことでしょう。
始皇帝が上記のような暴君なら、証拠になりそうなものは徹底的に探し出して、処分するはずです。
コメント