【歴史】鎌倉幕府滅亡から室町幕府設立までを勉強しよう!前編【太平記・逃げ上手の若君】

歴史

まず最初に

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本記事はTwitterなどでもアナウンスしていた歴史勉強シリーズの第二弾です。

  • 鎌倉幕府滅亡
  • 室町幕府設立

の二つのトピックに分けて勉強した内容をまとめていきます。

この記事は、歴史漫画を読む読者様への一助となる事をコンセプトとしています。
小学校の歴史の教科書と漫画の溝を埋める為の記事です。

今回は、『太平記(横山まさみち版)』『逃げ上手の若君』の二作を想定して執筆しています。

こちらの記事を読むことで、作品の理解度を上げることが出来ます(……はずです。

なお、専門的にならない様に解り易い記述を心がけるため誤解を招く表現があります。

また、あくまで作品を楽しむための補足ですので、関連性が薄いと判断した内容は史実であっても筆者の独断で割愛します。

何より歴史的な創作物は史実として扱われることがありますが、必ずしも事実に基づいているとは限りませんのでご注意願います。

上記の事に留意して頂いた上で、エンタメとしてお楽しみください。

筆者的に、これを覚えておけば作品の理解度がグッとあがる、と思われる内容には文章に黄色いマーカーや黒字エフェクトでチェックしておきます。そこだけでも覚えて頂ければと思います

歴史記事・年表
ブログ内で扱った歴史記事を時系列順に掲載します。コミックピアでは歴史漫画を楽しむ読者様へ向けて歴史記事を提供しています。これらの記事では歴史の教科書と漫画の溝を埋めるための情報が掲載されています。 今後も記事を投稿していく予定です。日本史を網羅できるように頑張っていきますので応援よろしくお願いします。

鎌倉幕府滅亡

鎌倉幕府は西暦1333年(年月日は全て西暦で記載します)に滅亡しました。

幕府が滅ぶきっかけとなった動乱を「元弘の乱」と言います。

元弘の乱は、1331~33年の三年間に渡り、全国各地で天皇親政を掲げる地方武士を主力とした討幕軍と北条得宗家を中心とした幕府軍で闘いを繰り広げました。

鎌倉幕府の最後は、朝廷の命(令旨)を受けた新田義貞の軍に攻められ、鎌倉にある東勝寺を枕に北条氏一族郎党が自害して幕を閉じます。

1185年に源頼朝が興してから148年間に渡り武家政権の中心だった幕府でしたが、栄枯盛衰の理には抗えず、14代執権・北条高時が傲りにおごりまくった末に歴史の潮流に飲まれていきました。

では、どのような経緯で滅亡の憂き目に合ったのか、それを探る前に予備知識を踏まえる必要があります。

鎌倉幕府は滅亡するに至る過程で覚えておくべき二つの要素、
それは、元寇による恩賞問題朝廷の両統迭立です。

幕府の衰退

上記の二つの要素によって鎌倉幕府滅亡の土壌が出来上がっていきます。

この二つは幕府に反発する皇族と武士を結びつける重要な要素です。

元寇

『蒙古襲来絵詞』より文永の役・鳥飼潟の戦い Wikipediaより

モンゴル帝国のフビライが日本に仕掛けた侵略戦争です。

1274年「文永の役」と1281年「弘安の役」の二度にわたり危機に晒されました。

日本史上最大の危機とも称される事態です。

モンゴル軍の残虐ファイトは筆舌に尽くしがたく、対馬に上陸した際は無辜な島民を殺戮したと伝わっています。

これを当時の鎌倉武士たち(主に九州武士)の奮戦で撃退することが出来ました。

詳しくは、別の歴史記事でまとめる予定です。

難を逃れた日本でしたが、しかして鎌倉幕府は戦後処理に頭を悩ませることになります。

恩賞が払えないのです。

恩賞問題

まず幕府に使える武士を御家人と呼びます。

幕府と御家人は御恩と奉公の関係で成り立っていました。これは御家人の幕府への貢献によって報酬を与える仕組みです。

ところが元寇は外国との戦であり、撃退戦だったために得るものがありません。

幕府としても十分な報酬を払う事が出来ないのです。

加えて、当時の武家は分割相続を基本としていました。

これは所領を兄弟で分けて相続する仕組みで、その必然から次第に細分化していきます。

つまり御家人たちは常に所領を広げ続けなければ生活が苦しくなるという事です。
(一応幕府も御家人の貧困救済の為に1297年に永仁の徳政令を発令するなど手を尽くしてはいましたが、抜本的な解決には繋がらず、御家人の不満解消にはなりませんでした。)

他にも、元寇後も外国からの脅威に対して準備する労役がかせられました。

これを異国警固番役と云い、元からの侵略に備えて沿岸部の御家人や東の国と西国の非御家人に課せられ、自費負担でした。

得宗専制政治

極めつけは「得宗専制」と呼ばれる政治体制です。

専制とは、為政者が独断で政治を行うこと。
得宗とは、北条宗家の家督相続者のこと。

つまりこの場合の得宗専制政治とは、北条氏の身内や息のかかった役人だけで政務を取り仕切る体制を敷くことです。

これらのことから御家人や地方武士の幕府に対する不満は増すばかりでした。

両統迭立

太平記では恒良は後醍醐から皇位を譲渡された事になっている

「りょうとうてつりつ」と読みます。

「迭」とは互いにとか代わる代わるといった意味です。

当時の天皇は、幕府の調停(第三者の介入で解決に導くことの意)によって二つに統派から交互に決める制度なっていました。

この二つの統派を「大覚寺統」と「持明院統」と呼びます。それぞれ元はお寺の名前です。

どうしてこうなったかについては本記事では触れませんが、この制度に不満を持つ皇室と討幕の気運が結びつき、天皇親政を目論む大覚寺統の後醍醐天皇が主導した「正中の変(1324年)」「元弘の変(1331年)」に繋がるのです。

後醍醐天皇は朝廷の権威を回復し、更にはご自身の王子に皇位を安定して継がせたいと考えていました。

言うは易く行うは難しと申しますが、これは大変困難な道です。

「元弘の変」後に後醍醐天皇が自ら戦地に赴いたとされる「笠置山‐かさぎやま‐の戦い」では、幕府軍の大軍に対して衆寡敵せず敗北し、命からがら脱出するも捕縛され流刑の屈辱を味わいます。

その後の敗戦処理の一環として、幕府は持明院統の光厳天皇を即位させました。

しかし後醍醐天皇は退位を御承知されず、それぞれの統派に二人の天皇が在位するという異常事態に陥ります。1332年の事です。

正中の変

説明が前後しますが「正中の変」は1324年に京都で起こった討幕未遂事件です。

首謀者は後醍醐天皇であると云われています。

ただし「正中の変」には冤罪説と首謀説があり、前者は首謀者は後醍醐天皇ではないという説で、こちらも広く支持されている説です。

太平記では、幕府の力が衰えて求心力が弱まってきていると説明されていました。

というのも正中の変は、密告により事前に計画が露呈したことで六波羅探題によって関係者が摘発、または攻撃されてしまうのですが、その後、宮からの手紙によって天皇の無実が訴えられます。

幕府はそれを聞き入れて皇室関係者を無罪または軽微な罰に留めるのです。

太平記の作中では、新田義貞が「もし天皇を害するようなことをすれば、それを大義名分に幕府に反感を抱く武士が挙兵する可能性があり幕府にそれを抑える力はない」として幕府の衰えを見抜いています。

これが史実なのかはわかりませんが、大事なことは幕府の衰退と南北朝の動乱は後醍醐天皇を軸に起こること、そして、その嚆矢ともいうべき出来事が「正中の変」なのです。

鎌倉時代の仏教

少し目先を変えて鎌倉時代の仏教について触れたいと思います。

コラム的な感じです。

新興仏教

鎌倉時代には多くの新興仏教が誕生しました。

  • 法然の浄土宗
  • 親鸞の浄土真宗
  • 一遍の時宗
  • 日蓮の日蓮宗
  • 栄西の臨済宗
  • 道元の曹洞宗

これらは鎌倉時代に興った宗派ですが全て現存します。

この頃に興った多くの宗派は、身分の高い人たちが主に信奉していた大陸から伝来した仏教を大衆化するのに大きな役割を果たしました。

国風仏教といった感じですね。

所謂大乗仏教で、多くの者が救われるべきとの考えから苦行や修業を行わず、念仏や題目を唱えたり座禅を組むことで悟りや極楽浄土へ行けると説きました。

厳密には日本の仏教は全て大乗仏教に分類され、後述する天台宗も同様に大乗仏教です。

例えば親鸞が説いた浄土真宗の教えは「悪人正機」といって「善人が救われるのは当然だから悪人こそ手を差し伸べて救われなければならない(だいぶ意訳」と考えていました。
この場合の「善人・悪人」というのは一般的な意味とは若干異なり仏教的な解釈が多分に含まれます。

また、ユニークなところで一遍上人が広めた時宗の踊念仏などがありますね。
この一遍という人は宗派の独自性もさることながら、仏門に入るにあたっての面白いエピソードがあるので、いつか記事にしたいです。

このように同時期に誕生した多くの宗派ですが、古今東西の新興宗教の宿命として当初は既存権力によって弾圧されます。しかし徐々に庶民や商人、地方武士などに受け入れられ、普及していきました。

キャッチ―だったという事でしょう。

鎌倉殿中問答

冗談めかしましたが、正式に幕府に認められて布教するケースもあります。

例えば日蓮宗などがそれです。

日蓮宗は、諸宗を論破する様子を幕府に披露する事で布教を許可されました。

これを鎌倉殿中問答‐かまくらでんちゅうもんどう‐といいます。

問答の大役は日蓮の孫弟子である日印が担い、この様子を日静というお坊さんが記録しました。

実はこの時の執権は14代・北條高時だったのです。

天台宗

当然従来の宗派も存在感を保持していました。その一つが平安時代から続く天台宗です。

天台宗は、比叡山延暦寺を本山にしている仏教宗派で、最澄によって唐から持ち込まれ、時の天皇・桓武天皇の支援によって寺院建立されました。それだけ皇室との結びつきが強い宗派という事です。

その証左として、後醍醐天皇の皇子である護良親王は、20歳の若さで天台宗の最高位である天台座主の地位に就いていました。

丁度「正中の変」が失敗した後の1325~30年の間に就任しており、討幕を意識して天台宗との関係を強化したい朝廷の意図が見て取れます。

後醍醐天皇自身も1336年に天台宗僧侶を味方につけて延暦寺に立て籠っています。

なぜそれが出来たかというと、ある程度の大きさの寺院は僧兵といって自衛の為に武装したお坊さんを抱えるのが普通でした。

遡って、平安末期には朝廷や武家を脅かす程の武力を有し、時の権力者を悩ませるほどです。

延暦寺の僧侶も山法師と呼ばれ、事あるごとに朝廷や摂関家に強訴を繰り返しており、宗教の権威を背景にしていたので殊のほか厄介でした。

そのような関係でしたので険悪そうなものですが、歴代の天台座主には皇統出身者がちょくちょくいらっしゃいます。うまく共存共栄の関係を保っていたようです。

何にせよ「建武の新政」によって武士への求心力を失う後醍醐天皇にとっては、頼りになる存在だったことは間違いありませんね。

元弘の乱

ここまでは鎌倉末期の幕府の内情や時代背景を紹介してきました。

いよいよ鎌倉・北条政権打倒の時が近づいてきます。

その発端となるのが「元弘の変」であり、この事件を内包した討幕までの一連の動乱を「元弘の乱」と呼びます

「元弘の変」は、1331年に後醍醐天皇主導で行われた二度目の討幕会議です。

そしてこれも早い段階で幕府側に露見してしまいます。参加者から密告者が出ました。

脇が甘い感じがしますね。

流石に今回ばかりは言い逃れが出来ないとみえて、後醍醐天皇ご自身も挙兵しました。
笠置山の戦いがそれです。

笠置山の戦い

笠置山は京都府南部の山城国相模群にある山です。
現在では、府立自然公園となり観光名所として名前が残っています。

京都府立笠置山自然公園

討幕計画が密告された後に京都を脱出した後醍醐天皇が向かった場所で、そこで幕府と戦う意思を固めました。

元弘の乱の主な戦は13個ありますがその一番最初の戦いです。

厳密には初戦というわけではなく、護良親王の陽動により幕府軍と延暦寺僧兵との小競り合いがありました。

さて、それでは笠置山の戦いの結果をみてみましょう。

後醍醐天皇方は、兵力差25倍の幕府軍になす術なく敗北しました。

一応3週間以上も持ちこたえているので善戦したともいえるかもしれません。

この時の幕府軍には足利尊氏も含まれています。司令官でした。

後醍醐天皇は落城の直前に脱出し、一命を取り留めることで幕府討伐の一縷の望みを残します。

事実この戦いの意義は大きく、これに呼応した各地の武士たちが挙兵しました。
(綸旨という天皇の意思を伝える手紙を各地の武士に発布していました。)

そのうちの一人に河内(大阪府東部)の悪党・楠木正成(‐くすのき まさしげ‐)がいます。正成の参加のタイミングは不明瞭ですが、勤皇の志厚く、後醍醐天皇に呼応したことが間違いありません。

正成の活躍は凄まじく、下・上赤坂城や千早城それぞれの戦いで目覚ましい戦果を上げます。日本史上最高の名将と謳われる程です。

楠木正成には一階の武士には収まらない神秘性があり、後醍醐天皇が笠置山に居を構えた時に見た夢から天啓を得て、正成を家臣にしたという言い伝えが残っています。

悪党

現代の感覚やその意味するところは「悪い奴らの集まり」といった感じでしょう。

しかし中世においては、体制にまつろわぬ人達という意味合いになります。

まつろうとは、服従するという意味で、まつろわぬはその否定形です。

この場合の「悪」とは「命令や規則に従ない」ということで、幕府からみた扱いずらい武士たちがそれにあたります。

代表的な人物は、楠木正成赤松円心などがそうです。

体制に積極的に従わない反骨の武士である以上は、かなりの強さを備えていると考えて良いでしょう。

船上山の戦い

話を元弘の乱に戻します。この乱の主な闘いは、

  • 笠置山の戦い(1331年10月4~30日
  • 下赤坂城の戦い(1331年10月13日~11月21日
  • 上赤坂城の戦い(1333年3月8日~3月17日
  • 吉野城(?
  • 千早城の戦い(1333年3月13日~6月21日
  • 船上山の戦い(1333年4月24日~
  • 六波羅攻略(1333年6月19日
  • 小手指原の戦い‐こてさしばら‐(1333年6月23日
  • 久米川の戦い(1333年6月24日
  • 分倍河原の戦い(1333年6月27~28日
  • 関戸の戦い(1333年6月28日
  • 鎌倉攻略(1333年6月30日~7月4日
  • 東勝寺合戦(1333年7月4日

の13個です。この内に後醍醐天皇が戦地に赴いたのが笠置山と船上山の2つです。

後醍醐天皇は「笠置山の戦い」の後に三日三晩山野をさまよった挙句幕府に捕縛されて流刑に処されます。これは、かつて承久の乱(1221年)の際に後鳥羽上皇への処置を前例とした処遇でした。

しかし、そこは不撓不屈の天皇、幽閉先の隠岐島を脱出して、現在の鳥取県にあたる伯耆国名和の港に漂着しました。その後伯耆国の武将・名和長年と共に船上山で再び挙兵を宣言し、北条氏の心胆を寒からしめます。

幕府側は早期解決を図らなければなりませんが、この時点で各地の戦乱を鎮静化出来ていなかった上に、いたずらに戦地を拡大したことで時間をかけ過ぎてしまっていました。

播磨国(兵庫県南部)の赤松円心など、この戦いの前後で多くの武将が討幕側に味方して各地で挙兵しています。

「船上山の戦い」の初戦は、150対3000という兵力差でしたが、名和長年軍が地の利を生かして善戦し、弓手衆の活躍もあり幕府軍を退けることに成功しました。

報せを聞いた執権・北條高時は、足利尊氏に命じて西日本に向かわせます。

尊氏は道中京都に立ち寄り、兼ねてより心に秘めていた討幕の志を標榜し、それをもって鎌倉幕府を裏切ります。そして、その足で六波羅探題を攻め潰しました

これにより勝負の趨勢は一気に後醍醐天皇の側に傾くのです。

時を同じくして、新田義貞も上野国(現群馬県)から鎌倉に向けて進軍を開始しました。
義貞は、後に後醍醐天皇の元で「三木一草」と呼ばれる四人の忠臣の一人で、楠木正成と並ぶ名将です。

鎌倉幕府滅亡

北條高時は新田義貞の挙兵を聞き、迎撃の為に桜田貞国を向かわせます。

各地の武士団の裏切りに高時は憤慨していました。

新田義貞も裏切った武士の一人でしたが、彼は元々幕府に冷遇されていたので、そしられる謂れはありません。思う様日ノ本一の騎馬隊とも云われる勇猛を奮う事が出来ました。

初戦の「小手指原の戦い」は武蔵国入間郡(現在の埼玉県所沢市北野)で行われました。

新田軍1000に対して、幕府軍僅か2000の戦いです。2倍の兵力で容易に片が付くと高をくくっていたのでしょう。事ここに至っても幕府は新田義貞を侮っていました。

新田軍は倍の兵力差を覆して互角のまま継戦します。翌日には場所を変え「久米川の戦い」にて辛勝をおさめます。

新田義貞はこう考えていました。
「初戦で自分たちが勝てば、立場を決めあぐねている東国周辺の武士たちが挙兵して傘下についくれるはずだ。必ず勝たねばならない」と。

義貞の戦略眼は幕府方を上回っていたことの証明でした。

続く「分倍河原の戦い」(東京都府中市)は高時の弟・北条泰家の率いる軍勢と激突しました。

この時点で新田軍は20万にも膨れ上がっていたとの記述があります。これは誇張だと思いますが、鎌倉幕府に不満を持った各地の武士たちにより相当数増員したのは事実で、兵数は当初の十倍にも膨れ上がっていました。

新田軍に合流した兵士の中には、幕府の命令で人質として鎌倉に残された足利尊氏の嫡男・千寿王も含まれます。尊氏の裏切りに合わせて家臣と一緒に鎌倉を脱出、その後に義貞軍に合流していました。
千寿丸は後の室町幕府二代将軍・足利義詮‐よしあきら‐のことで、尊氏の名代(代理)として僅か四歳の身空で在りながら戦に参加していました。

それでも幕府軍の総勢15万の兵力と弓手の前には防戦一方となり、新田軍は一時的に堀金(現在の埼玉県狭山市)の農村まで敗走しました。

幕府軍がここで追い打ちをかけていれば歴史は変わっていたかもしれません。

北條泰家と桜田貞国は油断していました。

あくる日に敵方の三浦義勝の裏切りを利用して奇襲を仕掛けた新田軍は、泰時軍を壊滅させます。敗走する泰時軍を追い討つ形で「関戸の戦い」(東京都多摩市関戸)に移行し当然これに勝利しました。

そして、戦いの舞台はいよいよ鎌倉の地へと移ります。

鎌倉攻略

幕府軍は相次ぐ敗戦とそれに伴う地方武士の裏切りの報を受け、鎌倉に繋がる要所の街道を封鎖して都市に立て籠る構えを取りました。

鎌倉は現在の神奈川県鎌倉市の中心部にある都市で、三方を山に一方を海に囲まれた自然の要害です。

攻め入るには狭い街道を進むしかなく、容易には切り崩せません。

新田義貞軍の勝機は薄い戦いでしたが、一度転がり出した討幕の勢いは中々止められるものではありませんでした。幕府軍に漂う「北条に先はない」という空気や「いつ裏切るやもしれない」という疑義の視線を向けあいながら戦うのは、戦場の将兵にとっては相当なストレスだったことでしょう。

武士も人間であり感情があります。一度悪いバイアスがかかってしまうと平時のような判断がつかぬもので、歴戦の猛者であってもミスを犯します。

それが表に出たのが幕府の忠臣・赤橋守時でした。

彼は、北条家と縁戚関係にあり幕府内でも厚遇されてきました。しかし、守時の妹は足利尊氏に嫁ぎ、その嫡子・千寿王が新田軍について鎌倉を攻めているのでした。

守時は虚心ではいられない心理状態でした。

結果的に義貞の罠(偽装退去戦術)にかかって、追撃した後に討ち死に(自決)してしまいます。作中では、敗北覚悟での追撃であるような描写がなされています。

しかし、幕府軍は守時戦死の報を受けて一層強固な防御陣を敷き、新田方は攻略が困難になるという皮肉を生みました。

稲村ヶ崎突破

攻めあぐねる義貞は搦め手で攻略することに決めます。

鎌倉が三方が山に囲まれていて、もう一方が海に面しているというのは前述した通りです。

そこで義貞は、鎌倉の南西部にある岬の岩肌を伝って、海岸沿いから強行突破する事を思いつきます。

この岬を稲村ケ崎と呼び、現在は鎌倉海浜公園として残っており、更に温泉も発見されたナイスな観光地です。

本来そのあたりは、幕府方の船が海側から目を光らせているはずでしたが、義貞は矢島五郎丸という潮の干満に詳しい部下と相談します。そして干潮のタイミングを見極める事が出来ました。

下の画像は義貞が部下たちに作戦の決行を伝え、海の神に太刀を捧げて成功を祈るシーンです。

この後、潮が引き、良い感じに道が出来た事で新田軍は進軍を開始します。

月岡芳年画 太刀を海に奉じる新田義貞
Wikipediaより

東勝寺合戦

稲村ケ崎を突破して鎌倉に侵攻した新田軍は、逆茂木を手早く撤去した後に猛攻を開始します。

背後からの攻撃に右往左往する幕府軍をなぎ倒していきました。

知らせを受けた高時は、流石に観念したのか、一族郎党を引き連れて北条家菩提寺である東勝寺へ移動します。

北条高時をはじめ、その場に集まった283人の北条一族、そして、587人の家臣団は次々と自決して果てていきました。

これにより3年間続いた「元弘の乱」は後醍醐天皇方の勝利として終結しました。

しかし、北条一族全員が自害したわけではなく、高時の子供である北条邦時と北条時行は家臣と共に脱出を試みています。

邦時は家臣に裏切られてしまい新田方に捕縛された後に、哀れにも処刑されます。
時行は鎌倉を無事脱出し、信濃(長野県)まで逃走に成功しました。

そこで家臣の諏訪盛高と諏訪神道に匿われて鎌倉幕府再興を目指します。

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北条高時という男

北條高時像 宝戒寺所蔵
Wikipediaより

高時の切腹により148年続いた鎌倉幕府、また北条時政から続いた執権政治に幕が下りました。

横山先生の漫画版ではわかりませんでしたが、高時はこの時なんと29歳(1304-1333)でした。

幕府滅亡に導いたとされている高時とはどのような人物だったのか?また現在どのようなイメージを持たれているのかをご紹介しましょう。

『太平記』では原典や横山版でも北条高時は政務を顧みずに闘犬や田楽に興じる暗愚な当主として描かれています。

高時の人物評はこれら古典を基に形成され、長らく史実として扱われてきました。

実際は後世に編纂された書物での描写ですので、どれほど歴史の真実を語っているのか疑わしいと思わざるを得ません。

太平記などは室町時代に成立した書物ですので、当時の将軍家に気を使った書き方になるでしょうし、敗者を貶めるのは歴史の常です。

鎌倉幕府の失政を弾劾して、足利の正当性を高める為のプロパガンダの意図がみられますね。

ただし、北条一族でもある15代執権・金沢貞明によると、高時は病弱で彼の体調に周囲が一喜一憂していたとされています。これは血族結婚によるデメリットと考えられています。
『逃げ若』での描写は流石にラリり過ぎでしたね。

高時の病弱体質を鑑みると「闘犬に興じていた」という記述には、一定の信憑性が伴います。

何故なら、人は自身の欲求が満たされない時に別の対象で満たされない感情を埋め合わせる事があります。これを代償行為と言ったりしますが、高時が闘犬に興じていた、という話は正にこれに当たります。

最近(といっても30年も前ですが)では、大河ドラマや漫画の影響で、病弱かつ虚無感を孕んだ人物像で描かれることが増え、イメージもそちらが定着しました。

この記事では、『太平記』の描写やイメージを基に解説をしていますが、実は一般的ではないのです。

そもそも元弘の変が起った1331年時点では、高時は病気を理由に第14代執権を退いていました(在職期間:1316‐26年)

よって、高時が(多少政務に干渉できたとしても)幕府の全権を掌握しているかのような描写は、史実とはかけ離れているんですよね

横山版『太平記』では一切触れられませんが、鎌倉幕府最後(第16代)の執権は前述した赤橋守時なのです。彼は、一族から裏切り者扱いされることを払拭するために最前線で新田軍と戦っていたのでした。

室町幕府設立

お疲れ様です。ここまで読んでくださりありがとうございます。

当初一つの記事で纏める予定でしたが想像より長くなってしまったので前後編にしたいと思います。

近いうちに投降しますのでしばらくお持ちください。

後編は前編程長くならない予定ですが、正味な話どうなるのか分からないので悪しからず。

後醍醐天皇

前述した通り、元弘の乱は後醍醐天皇を軸に進んでいるといっても良い動乱でした。

物語的には、楠木正成と足利尊氏、新田義貞、三人の英雄にスポットライトが当たっていますが、やはり天皇の権威は無視できません。

何より約150年ぶりに政権が朝廷に返ってきた歴史的意義は大きいです。

それでは歴史の表舞台に再び立った天皇について少しご紹介しましょう。

ー後編へ続くー

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