【歴史】北条早雲はいつ奔りだすのか!?室町時代「新九郎、奔る!」応仁の乱など歴史背景を勉強しよう!

歴史

まず最初に

本記事は、前回ご好評をいただきました『新九郎、奔る!』紹介記事の補足的な位置づけです。

【漫画紹介】ゆうきまさみ先生、初の歴史漫画『新九郎、奔る!』北条早雲こと新九郎の活躍!
時は応仁の乱の真っ只中。京の都にその男はいた。後の北条早雲と呼ばれる男だ。彼の名は伊勢新九郎盛時!彼の半生を描く『新九郎、奔る!』本作は究極超人あ~るや機動警察パトレイバー、鉄腕バーディーで有名なゆうきまさみ先生が描く歴史漫画。少年が青年を経て一端の大名に成り上がる様を描いた力作。彼はいつ奔る出すのか!?

主に、

  • 室町幕府とは
  • 応仁の乱とは

のトピックに分けて解説し、その時の新九郎がどこで何をしていたかを補足します。

専門的にならない様に解り易く記述することを心がけるために誤解を招く表現があります。

また、あくまで作品を楽しむための補足ですので、単行本八巻時点で物語への介入度が低いと判断した事象や偉人も筆者の判断で割愛しています。

上記の事をご留意頂いた上で、エンタメと割り切って読んでいただければ幸いです。

筆者的に、これを知っておけば作品の理解度がグッと上がると思われる内容には、太字エフェクトや黄色いマーカーで文章をチェックしておきますので、そこだけでも覚えて頂ければと思います

歴史記事・年表
ブログ内で扱った歴史記事を時系列順に掲載します。コミックピアでは歴史漫画を楽しむ読者様へ向けて歴史記事を提供しています。これらの記事では歴史の教科書と漫画の溝を埋めるための情報が掲載されています。 今後も記事を投稿していく予定です。日本史を網羅できるように頑張っていきますので応援よろしくお願いします。

室町幕府

1336年に足利尊氏によって創設された日本の武家政権です。

当初は尊氏と補佐役の高師直こうのもろなお-、弟足利直義の二頭体制で政治を行っていましたが、次第に直義と師直の派閥争いが起り、やがては王朝の権威争いと結びついて南北に分断するに至ります(南北朝時代1337-1392)注:かなり意訳・鵜呑みにするな!

そして、55年続いた南北朝の動乱期を経て、それを明徳の和約(1392年)によって合一した三代将軍・足利義満の時代に全盛期を迎えます。

しかし、六代将軍・足利義教嘉吉の乱(1441年)で暗殺され、将軍家の権威が下がり始めました。実はこの時くらいから室町幕府の滅亡の予兆は出ていたのかもしれません。

主人公・伊勢新九郎は1456年生まれなので当然これらの時代にはいません。

名前

室町というのは道の名前です。

京都は碁盤の目のように東西南北に小路が張り巡らされた都市設計をしていますが、室町通りもその張り巡らされた小路の一つです。

室町通りは南北を通る小路で足利家の御所がありました。その将軍家の住まいを三代将軍足利義満が増築し「花の御所」と呼ばれる豪華な宮殿にしました。

室町時代という名称は日本史の時代を区分する呼称ですが、その由来はこの室町通りなのです。

上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた「花の御所」
(京都アスニー収蔵)花の御所 – Wikipediaより

多くの方がイメージする将軍の住まいとは大分違うと思います。

戦国期以降の軍事施設も兼ねる城郭とは違い、堀も城壁もなく防衛能力は皆無です。

幕政と権威

室町幕府は、当初は鎌倉幕府の統治機構を踏襲していました。しかし義満によって守護大名による合議制・連合政権になりました。

これは、南北朝時代が長期化したことで各地の守護が力を持ちすぎたために、将軍家は地方統治をおこなう事が出来ず、守護を通じて全国支配を行わざるを得なくなったからでした。(守護領国制

では、室町幕府は権威がなかったのか?といえばそういうわけでもありませんでした。

武力や求心力、皇室の威光などを背景に他家の家督争いの仲介役として機能していました。この機能が幕府の権威を担保していたのです。

これは、長男相続が制度化する以前に頻繁に家督争いが起きていた事で、お家存亡が左右されていた当時の武家事情が影響していました。

ですが、この機能が後の応仁の乱の遠因になってしまいます。

役職

室町幕府の役職や行政機関の一覧です。多くは鎌倉幕府から受け継がれています。

作中で重要なキャラクターの役職を解説します。

  • 管領 ‐ 政務のトップで将軍に次ぐ最高の役職です。物語序盤の中心人物、細川勝元も管領でした。
  • 評定衆
  • 政所 ‐ 財政と領地に関する訴訟を掌る役職です。作中の時代では新九郎の叔父である伊勢貞親が執事を務めており、伊勢家の世襲制でした。
  • 問注所
  • 侍所 - 軍事・警察に関する役職です。応仁の乱の西軍大将・山名宗全もかつて執事でした。
  • 小侍所
  • 奉公衆
  • 地方
  • 禅律方
  • 神宮方
  • 鎌倉府 ‐ 東国(あずまのくに:関東地方の事)の統治を担う役職で名目上は鎌倉公方が長官を勤めていますが、実際は関東管領が実権を握っていました。関東管領は上杉家の世襲です。
  • 守護職 ‐ 地方警察のような役職で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。時代が下るにつれて武力を背景に権力を拡大して、守護大名と呼ばれるようになります。
  • 地頭
  • 奥州探題
  • 羽州探題
  • 中国探題
  • 九州探題

この場合の執事は役職の長官を意味します。将軍を補佐する人といった意味合いですね。

管領

管領は将軍の補佐役で幕政に関与し、将軍に次ぐ権力を持ちます。

かんれい、と読むのが一般的です。

細川家・斯波家・畠山家が持ち回りで就任します。この三家を三管領家と呼びます。

守護職も兼任しており、それぞれ領地を持ちますが基本は京都に在中しています。

作中序盤では、細川家の動向、特に細川勝元が注目されがちです。
畠山もぼちぼち出てきますが、斯波はほぼ空気です。

これには理由があります。

上でも書いた通り、室町幕府の権威の源は他家に仲介する機能にあり、政治工作を行う事で幕政に関わる諸大名のパワーバランスを取っています。

これにより幕府に忠実な後継者を継がせることで求心力を高めたり、無能な者を継がせることで力を削いだりします

物語開始時の斯波家は、義廉を廃嫡して義敏-よしとし-が家督を継いでいました。

伊勢貞親(新九郎の叔父)の言によれば「斯波家の家督は義廉から義敏にすげ替えた。」とされており、工作の含みが持たされています。

義敏は貞親に不束者と評価されています。力を削がれたことで影響力の低下を招き、作中での存在感を失っていますね。

畠山氏は、物語開始時には管領(畠山長政)でしたが、家督争いの真っ最中で幕政に影響力を及ぼすことが難しい時期でした。

この家督争いによって応仁の乱の火蓋を切るので、斯波家に比べれば存在感はあります。

細川家は、勝元の手腕により、他家に比べれば大きなイザコザもなく安定していました。しかし悩みの種は多かったようで、勝元は心労が祟ってしまい44歳の若さで没してしまいます。

関東管領

関東管領は、後述する鎌倉府の長官職である鎌倉公方を補佐する役職です。

上杉氏の世襲制で任命権は将軍にありました。

作中では、上杉龍若という人物が上杉家の家督を継ぎます。年齢は13歳でした。
その後、元服のタイミングで関東管領に就きました。1466年12月の出来事です。

関東管領は、鎌倉公方家を補佐する立場ですが室町幕府寄りで公方家とは角を突き合わせる関係です。

鎌倉公方

鎌倉府の長官の通称です。

足利幕府の高祖である足利尊氏は本拠地を京都に定めました。

その後に東国の統治を行う必然から、かつて幕府があった鎌倉にその機関を設置しました。

これを「鎌倉府」と呼び、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐など10か国を統治しました。鎌倉は現在の神奈川県のあたりです。

室町幕府は、鎌倉府の存在により近畿や西国の統治に集中できるようになりました。

なお鎌倉府の長官を元々「関東管領」と呼び、その補佐役は「執事」であり「関東執事」と呼ばれました。

時代を下るうちに、関東管領は「鎌倉公方」と呼ばれるようになり、執事を務めた上杉氏が繰り上がりで関東管領になりました。よって鎌倉公方は室町幕府の正式な役職ではないとされています。

享徳の乱と堀越公方

鎌倉公方家は代々世襲制で、尊氏の次男(足利基氏。室町幕府二代将軍・義詮 ‐よしあきら‐ の弟)の一族が担当しました。

しかし、公方家と関東管領・上杉家の間には軋轢がありました。
それが表面化したのが「享徳の乱」です。

享徳の乱は、1455‐83年までの28年間、関東を中心に断続的に起こっていた内乱です。首謀者は鎌倉公方家・足利茂氏です。

この動乱の発端には、現時点で物語にほぼ絡まない人物の名前が登場するので、要点だけ纏めて説明します。

まず、鎌倉公方家は室町幕府に不満を持っていました。それを諫める関東管領・上杉家と衝突していました。茂氏の父・足利持氏は上杉との争う中で命を落とします(永享の乱)。そして、敵討ちと言わんばかりに茂氏は上杉の代替わりした当主を暗殺し、戦を始めました。

このような感じです。
詳しく説明すると記事が無限に長くなるので詳細は割愛します。

一応本編(第五十話:単行本八巻収録)でも少し触れられています。そして、

この茂氏の暴挙に怒った将軍・足利義政が討伐の軍を向かわせることで戦乱は一時終息し、その後に茂氏は、鎌倉から古河(下総の国古河:現茨木県古河市)に居を移し、古河公方と名乗ります。

物語的には古河公方より、その後に鎌倉公方の後釜を任せられた足利政知が重要です。

足利義知

政知はそれはそれは気の毒な人で、義政の異母兄として生まれ、出家していたのですが鎌倉公方の後釜になるように頼まれて還俗、鎌倉に向かうのですが、関東の諸侯や管領の権益が絡むことで全く歓迎されず、鎌倉での身の安全も確保できないので、伊豆(静岡県)に居を構えることになってしまいます。

やむなく伊豆の堀越に御所を置き、以降政知は「堀越公方」と呼ばれるようになります。

物語では新九郎はこの堀越公方と謁見しています。1474年頃の事で、新九郎は18歳です

なお動乱の順番は、
永享の乱、嘉吉の乱、享徳の乱、応仁の乱の順番で起こっています。
(1438年、1441年、1455年、1467年)

応仁の乱

西暦1467~77年までの約11年間にわたり、京都市街を中心に繰り広げられた戦乱です。

室町幕府の権威失墜を招き、
「戦国時代の火蓋を切った戦乱」とみなされています。

こちらの記事では、将軍家の後継者争いが発端、と書きましたがこれは正確ではありません。

実際は畠山氏(畠山義就よしなり‐と畠山政長)の家督争いに端を発しています。 

しかし、それでも将軍家の後継者争いは重要なファクターです。

八代将軍・足利義政には嫡男が居ませんでしたので、弟の足利義視を時期将軍に推薦していました。しかし、正妻・日野富子との間に義尚‐よしひさ‐が生まれた事(1465年)で事態はややこしくなりました。我が子を将軍にしたい富子と義視が時期将軍の座をめぐって対立してしまいます。

この状況で幕府内の有力者がどちらに付くかで政治抗争を繰り広げます。自分たちにとって有利な方に付こうと政治工作を行っていました。その筆頭が細川勝元と山名持豊こと山名宗全です。

そして新九郎の実家である伊勢家は富子・義尚派でした。これは伊勢家が将軍の嫡男の養育権を有していたからでした。新九郎の叔父・伊勢貞親は義政の養育係として義政に取り入る事で権力を拡大していました。義尚を支持することで同じ状況を維持しようとしたのです。
しかしそれに異を唱える形で起こったのが文正の政変でした。これにより義政は側近を失い、諸大名が応仁の乱へ向かう事になるのでした。

と、ここまでが応仁の乱のバックストーリーです。

そんな中で家督争いを繰り広げていた畠山義就が武力で解決しようと畠山長政を攻撃します。これが応仁の乱の始まりです。

応仁の乱は複雑さが売りの戦乱で、その理由は対立が何層にも重なっているからと言われています。

  • 山名宗全と細川勝元の政治的な対立
  • 畠山義就と畠山長政の家督争い
  • 斯波義廉と斯波義敏の家督争い
  • 各地の守護大名の家督争い
  • そして、足利義視と足利義尚(日野富子)の将軍の後継者争い

このような多次元的な対立構造を持ち、それが西国の守護を巻き込んで拡大していきました。

基本的には内紛で、それが他家を巻き込んで野火のように広がっていく上に特に大きな志を持った者同士の争いでもなかったので、裏切りや寝返り、鞍替え、闇取引なども横行していました。

有名な所では、宗全は当初富子の援助要請に応えて義尚を擁立していました。しかし翌年には義視を支持する立場に転じています。

宗全のこの行動の意図はよく解らなかったのですが、義視の後見人だった細川勝元の大義名分を奪う目的があったのかもしれません。あくまで記事を書いている時点での筆者の解釈ですので、もう少し調べてから修正するかもしれません。

話を戻しますが、このように諸大名が流動的に立場を変化させたことで泥沼の戦乱になってしまったわけですね。

これによって国中に恨みや不満が広がり、各地の実力者たちは野心を醸成させ、下剋上の気風が旺盛となっていきました。戦国時代の火蓋を切った、といわれる所以です。

近年では明応の政変(1493年)に戦国時代の嚆矢を求める向きが有力です。
『新九郎、奔る!』は最新の説を下敷きに描かれているので、この説をおすと考えられます。

明応の政変時の新九郎は38歳で、伊豆の国北條「鎌倉公方」邸を攻めていました。
物語のプロローグのシーンです。

年表

  • 1456年 新九郎生まれる ‐1520没(応仁の乱開始時に12歳
  • 1466年 
    文正元年 9月6日、政所・伊勢貞親が諸大名の反発に買い、追放される(文正の政変)。       
  • 1467年
    応仁元年 1月18日、畠山義就、管領・畠山政長の陣を襲う。応仁の乱が勃発する
         3月5日、「応仁」に改元される
         5月26日、京都市中において東軍が西軍の陣を攻める
         6月3日、足利義政、牙旗を細川勝元に授ける
  • 1468年
    応仁 2年 11月23日、足利義視、山名宗全の陣に投ず
          13日、新九郎の兄・伊勢八郎が義視に付き従い、没する
  • 1469年
    文明元年 1月、足利義尚が将軍継承者として披露される
         4月28日、「文明」に改元される
  • 1471年
    文明3年 3月、新九郎、荏原郷(現在の岡山の辺り)へ下向する
         5月21日、朝倉孝景、主家斯波氏に変わって越前守護に任ぜられる
    時期不明、新九郎、初恋の末に童貞を卒業するも次の日には失恋をかます
         
         7月27日、蓮如、越前吉崎に下り、布教の拠点とする
  • 1472年
    文明4年 5月、細川勝元を始め細川京兆家が総出家を行う。これには嫡男も含まれる。
           これにより家督争いの種が消え、聡明丸こと細川政元の家督相続が確定
  • 1473年
    文明5年 3月18日、山名宗全死去。享年70
        5月11日、細川勝元死去。享年44
    12月19日、足利義尚、征夷大将軍に
  • 1474年
    文明6年 1月、新九郎が堀越公方・足利政知に謁見する
    4月3日、山名政豊と細川政元、講和する
    7月、富樫幸千代と富樫政親・朝倉孝景・本願寺門徒連合軍が戦う
  • 1477年
    文明9年 1月18日、長尾景春、山内上杉顕定・扇谷上杉定正を武蔵五十子で攻撃、後に鉢形城を拠点とし抵抗開始
    9月21日、畠山義就が領国である河内へ帰国する
    11月11日、土岐成頼、足利義視を連れて美濃へ帰国

八代将軍・足利義政

Wikipediaより
伝足利義政像(伝土佐光信画、東京国立博物館蔵)

義政は室町幕府八代将軍です。

嘉吉の乱によって暗殺された義教の子供でもあります。

彼の性格を一言で表すと優柔不断です。

応仁の乱は義政の性格が長期化や複雑化を招いたとも言われます。

作中、新九郎からも「味方だと思ってはいけない方」と評されています。

また、政治的なセンスは皆無だったようで、幕府運営は周囲に丸投げで、本人は政治から敬遠していました。

しかし、これには事情もありました。

先述の通り、六代将軍・義教は嘉吉の乱にて暗殺され、後を継いだ七代将軍・義勝も僅か9歳で亡くなってしまいました。在位日数は8カ月だったと伝わっています。

そして義政にお鉢が回ってきたことで否応なしに将軍職に就きました。
義政が13歳の時です。

就任時点で実質的な傀儡政権であったため、将軍としての器量を養う事が出来なかったわけですね。

この間に側近達(三魔)の政治への関与が続き、幕府の求心力低下に拍車がかかります。

三魔

義政の側近だった人物たちで、からす・あり・おいの三人を指す俗称です。

義政が幼い頃に権力を握っていました。

詳しくは割愛しますが、この三人が各地の守護や守護代のお家騒動を煽りまくりました。

幕府の権威を示す意図があったのかもしれませんが、応仁の乱が拡大・長期化した遠因の一つになったと考えられます。

東山文化

政治的には愚将の代名詞のような義政ですが、芸術面で日本文化に大きく貢献しました。
それが東山文化です。代表的な建築に銀閣寺があります。

足利義視

六代将軍・義政の息子であり、七代将軍・義勝、八代将軍・義政、堀越公方・義知の弟です。

作中では今出川殿と呼ばれています。これは住まいが京都の今出川だったことに由来します。

応仁の乱のキーマンの一人です。

彼自身は将軍になることは叶いませんでしたが、彼の息子・義稙は十代将軍に就くことになります。

終結とその後

東西軍の総大将であった勝元と宗全が相次いで亡くなり、その後を継いだ細川政元(聡明丸)と山名政豊が講和を交わすことで応仁の乱は終結の目途をつけることが出来ました。1474年の事です。

勝元の妻は宗全の養女であり、細川家と山名家は親戚同士でした。

つまり政元は宗全の孫ということになります。

両大将は、生前から戦の落としどころとして、政元が家督を継ぐことをオプションとして考えていました。

細川山名家のパイプを強化して、政治的な優位性を確保する算段があったものと思われます。

しかし、それでも応仁の乱が終結するまでには3年の時を有しました。

事の発端である畠山義就の処遇や足利義視の進退をどうするかなど、戦後処理が行わなくてはなりませんでした。

結局の所、義就は領国である河内国へ戻り、義視は息子の義稙を伴って美濃の国へのがれます。

これにより西軍は完全に解体され事実上戦乱は終結します。1477年11月の事です。
そして同月20日に幕府によって正式に終結の催しがひらかれました。

この戦乱は延べ数十万の兵士を動員し、11年間も行われました。しかし惰性的に争いを続けてきた挙句に、勝敗がつかないまま終わりました。

主だった大名が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もいませんでした。

幕府に罰するだけの力がなかったからとも言えますが、大内氏のように賄賂を贈ることで守護職や領地を安堵された大名もいました。

そして戦乱後の影響として一番大きな事は、守護権力の変化です。

応仁の乱の間に、各国で守護家に迫る国人が台頭しました。これは東西両軍で戦力を確保するために家格を無視して守護職の叙任を行ったためでした。

有名な所で朝倉孝景がそうです。上記の年表にも記載しましたが、斯波氏に変わって越前守護に任ぜられています。

再三書いてきましたが、各地に有力者が増えた事で戦国時代へ突入するきっかけになります。

力を持ち始めた守護たちは次第に他家へ侵略するようになり、室町幕府によっても是認されました。

逆に応仁の乱によって求心力を低下させた守護もいました。
長期間の戦乱を余儀なくされたことで守護家の財政は逼迫し、国人や家臣への支配力を低下させてしまいました。

この結果、国人や家臣団は守護の影響を排除して自らの土地で力を蓄え始め、領主化します。

これは家格秩序の崩壊です。下剋上と呼んでも良いでしょう。

応仁の乱終結後の十数年は、下剋上の風潮と戦国時代の始まりが予感される変換期です。

期間として、応仁の乱が終結した1477年から明応の政変が起った1493年くらいでしょうか。

新九郎が21~38歳の間です。

新九郎こと北条早雲が奔り出すのは、恐らくこの期間ではないかと思います

大体この期間は駿河に行って今川家の家督争いに巻き込まれたり、収拾をつけた後は、京都に戻って義尚の奉公勤めをしたりしています。

まとめ

現代の我々には縁遠い話ですが、武家の家督争いはその家の存亡を左右する程に重要な事でした。

将軍家と鎌倉公方家の関係をみても解る通り、家督を継げなかった者や分家歴代は、権力から離れた日陰で冷遇され続けてしまうのです。

ですから、将軍家はもちろん細川や畠山、斯波、この記事では触れませんでしたが大内や織田などの諸大名達にとっては「」と同様です。

幕政の権力闘争も、その戦の延長線上にあったと言っても過言ではないでしょう。

例えば、山名宗全という人物は嘉吉の乱にて多大な手柄を立てたことで、幕政へ関与する影響力を持ちます。その後は応仁の乱にて西側の大将になるのです。

戦は政治の一部であり、戦の先には政治があります。

そして歴史は勝者によって作られます。当然そこには敗者も存在します。

宗全は、足利義視や斯波義廉、畠山義就などの家督争いに敗れた者たちを囲って一大勢力を作ったのです。

応仁の乱は、体制を固める勝者とそれに抗う敗者の戦乱だと言えると思います。

最後に

この記事は『新九郎、奔る!』を単行本の内容次第で加筆することを前提に書いていますので、内容が不完全かつ不明瞭な部分が多々あります。

加えて、物語に関係ない事象への説明がおざなりです。

特に、室町幕府成立から南北朝時代にかけて観応の擾乱という戦乱が起るのですが、そのあたりの理解が不十分なために明らかにおかしい説明内容があります。

わかってんなら書くなよ、と思われるでしょうが、この記事の方向性を示す意味で真っ先におかしい記述をする事でエンタメという予防線を張っています。

そのうち修正しますのでご容赦願います。

また、義尚や富子などの人物は意図的に割愛しています。物語への介入度次第では専用の見出しを作って紹介しようと考えています。富子ファンの方はしばしの間お待ちください。

筆者の自己分析として、トピックを絞った上で、その範囲内で新九郎に関係がありそうな内容を拾うのはかなり無理がありました。反省点が多い内容になってしまったと思います。

本当に最後に、

長々とご拝読頂きありがとうございました

拙い内容と文章でしたが読者の方の一助になれば幸いです。

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